~明治前期の「新聞附録」~
慶応が明治と改まったころから新聞が次々と創刊されはじめた。多年にわたる言論圧迫への反溌もあったろうが、それよりも大変革期を迎えて、維新の東京にはニュース種が多かったことにもよる。つづいて明治七年には板垣退助、副島種臣、後藤象次郎、江藤新平らが民選議院設立建白書を政府へ提出して国会開設運動の先駆となったが、そのころから自由民権運動の火ぶたが切られ、この前後から地方新聞の創刊があいついだ。ところが、当然のことながら、読者の少ない創刊当初は、どの新聞も経営が苦しいもの。紙代収入の他に広告収入に頼ることを考えて、広告募集の記事を載せているところが多かった。明治五年創刊の東京日日新聞を例にとってみると、「店開き、新規売出しなどの引札または諸商売買の報告その他何事に依らず出版す」云々。漢字の多い文章をわかりやすく書き直してみたのだが、ここに「引札」とあるのは、広告の代名詞として使ったようにも受取れるが、引札を作って出版してあげます、の意味とも思える。おそらく後者ではなかったろうか。というのは、当時は新聞そのものが一枚刷りで、これでは引札と大差がない。わずか数行で納まる広告なら本紙に掲載もできようが、すこし長文にわたるものだったら、附録としてでも発行する以外に方法がなかったからだ。
それと、「広告はニュースなり」という広告についての定義もあるが、記事が少なかった当時としては、「新聞附録」は収入としてだけでなく、記事としての価値もあったはず。そのことを証拠だてるものとしては第53図を見ていただきたい。「日新真事誌」は明治五年英人ブラックによって創刊された、日本にできた最初の西洋式新聞として注目されたものであるが、新聞名の脇に「附録諸相場引札」と、附録として引札が添えられることを、わざわざ広告している。諸相場引札としたのは、引札のなかには値段まで入れたものがあったからでもあるが、それよりも維新直後の当時の読者は商品の相場を知りたがっていたので、それに応えたものであろう。(この日新真事誌は明治九年に廃刊しているが、それは政府がブラックの人物に注目し、彼を政府の御用係に招聘してしまったからである。)
さて、そのあと新聞は木版から活字へ、そして四頁になり、明治二十年代には今日の新聞の型にいくらかでも近づいてきた。しかし新聞が一枚刷りから四頁ものに発展したとはいっても、その間の明治前期には、新聞附録として出版され配布された引札がかなりある。そしてこのような型態がとられてきたのは、最初に述べた新聞創刊当初の事情によるものであって、広い意味では、この新聞附録は今日の新聞「折込広告」の前史といってよいであろう。このところ郷土出版が各地に盛んになってきており、たいへん結構な傾向であるが、そのなかの一冊『岡山事物起源』のなかには、「折込広告は明治十八年一月七日の山陽新報への挿入が第一号である」とある。が、この折込広告とは、むろん新聞附録として配られた引札のことであるに違いない。
ここで新聞附録となった引札の例をお目にかけることにしよう。別章(第)30図に明治二十年東京毎日新聞附録の引札を載せているので、ここでは地方の例として(第)54図のものをお目にかける。ご覧のように、明治二十二年の「伊勢新聞」附録。引札は「宿屋の知らせ」と題して、これまでは下宿屋兼業であったが今般客室二棟を新築して本格的な宿屋になりましたというもの。別章(第)30図のものもそうだが、この引札を見て感ずることは、いかにも新聞社(新聞記者)がつくったものらしく、活字の組み方なども新聞紙面によく似ていることだ。イラストには当時の風俗が現われていて面白いが、これもそのころの新聞小説のさし絵にありそうで、どこかで見たような気さえする。
ところで、このように新聞社が附録の形式で商店の引札を扱っていたのは、いつごろまでかというと、明治二十二、三年ごろまで、つまり明治前期のことであった。このころを境にして、自由民権運動の機運に乗じて続出した言論機関としての新聞は、その多くが没落し、新聞は経営時代に入ったのである。
このころになると新聞は紙面を増幅し発行部も伸びてきたので、引札を附録として扱うよりも、新聞社としては経営安定のためには、これまで以上に本紙への広告吸収を図らなくてはならなくなってきたのだ。
~明治後期は「折込広告」準備期~
さて、ここから明治後期に入るのだが、新聞と引札の関係はこれで終ってしまったのだろうか。大正の終りころになると新聞折込広告の専門店が出現するのだが(現在の株式会社オリコミの前身である折込広告社の創業は大正十一年)、その間の歴史が空白になっており、その間は新聞折り込みは全然なかったかのように思っている人も多い。しかし私が調べた結果は、そうではなかった。
私が蒐集した資料の一つに、明治三十七年に配った東京麹町十ノ十五の日本館の引札がある。日本館という屋号は麗々しいが、薪炭・石炭・コークス類問屋であって諸新聞及び広告取次所でもあった。この引札を読むと、薪炭類を買うと新聞代を割引くとか、新聞広告については「比類ナキ大割引」をするとか、新聞はこの時
代から拡売競争を演じていることが判明して興味をひくものがあるが、私にとってはそれ以上に知りたいことが載っていた。
・挿広告(諸新聞折込)ハ当時最モ盛ナリ、附近ノ得意ヲ目的タル商店其他ノ各位ハ簡便ニシテ効験頗ル著大ナリ
これによると、新聞附録の形式が終った明治後期になってからは、今日でいう折込広告がすでに行なわれていたということである。興味をひくのは、新聞折込みという名称は使われかかってはいたが、まだ普及するまでには至らないで、それよりも「挿広告」とも呼ばれていたらしいことである。ただし、この文中にある「当時最モ盛ナリ」は、この広告取次所の誇大表現であろう。
今日の新聞「折込広告」を明治時代には挿し広告を呼んだのではないか、と思える資料は他にもあって、明治二十一年の伊勢松阪の織戸新聞舗(新聞販売店)が配った「広告紙配布、便利法広告」と題する引札があって、そのなかには、
・広告散氏配布之事
・広告散紙配布ハ其方法種々アレドモ弊店ノ組合ニ於テ売捌ク諸新聞雑誌へ挿入配布スルトキハ三重県下ニ於テ新聞ヲ購読スル者ハ悉ク閲覧スベシ (三重県下ノ新聞売捌所ハ皆弊店ノ組合ナリ)
云々とある。「散紙」は「ちらし」と読む。江戸では引札だが関西では早くからちらしと呼ばれていたのであった。しかしここでは、そのことよりも「挿入配布」という言葉を使っていることに注意したい。前例の挿し広告といい、ここでの挿入配布といい、「折込広告」といわれる以前には「挿し広告」が用語として通用していたのではなかったか、という気がする。
ところで、明治時代には折込広告がどの程度に行なわれていたかを知るためには、断片的なものではあるが、他にもいくつかの資料がある。例えば、
「引札を配布する職業は、西洋にはあるけれども、日本にはない。新聞配達業の人などが、副業にしたらよいだろう」(明治三十二年三月・東京経済雑誌)
これは折込広告が行なわれ始めていることを知らないで提案しているのだから、それから僅か五年後に「当時最モ盛ナリ」になったとは、とうてい考えられない。
「引札は新聞に入れて配布するのがよい」「新聞取次に依頼するにしても、小僧に配布させるにしても ・・・」(明治四十二年・前田不二三・商店の研究)
明治の末には、商店では小僧(若い店員)を使って配布させていたところもあったが、方向としては新聞への折込広告が進んでいたことがわかる。ただ当時は今日のような折込広告料金表などはなかったので、料金はアイマイで、そのときの都合で適当に決めたものであろう。
ところで、明治末から大正にかけての折込広告のなかには、芝居や見世物や活動写真・連鎖劇などのものが多かった。そしてこれらの大半は折込広告といっても割引券つき、あるいは割引券そのものであった。
ここで明治後期に入ってからの新聞社の事情に触れておきたい。
三十七、八年の日露戦争のときには各新聞は猛烈な号外合戦を展開したが、同時に新聞の発行部数は増大していった。しかし各新聞社の販売競争も激しくなり、読者サービスとしての添えものが欲しかったのである。そういう状勢であったので、芝居や活動写真の割引券などはサービス品の役目をするので、新聞販売店としては配布料金どころか、入場券を何枚か貰う程度の条件で配布を引受けていたのだった。明治末から大正にかけてのことは、私にも記憶があるが、割引券などは小型でもあるためか、新聞に折り込まないで、配達人が手に持ちながらサービスとして配っていたように、私には記憶が残っている。
——以上、明治後期には挿し広告などと呼ばれて、不規則ながら引札が新聞折り込みされていたことが判明した。私はこの時代を「折込広告」準備時代と名づけておくことにする。
なおここで、「広告郵便」について簡単に述べておきたい。広告郵便法が実施されたのは明治四十三年一月。逓信省は郵便配達夫を活用して引札の配布を引受け収益の一助にしようとしたのである。配布を依頼したい広告主は引札を郵便局へ持ってゆき、所定の料金を払えば、配達夫は指定された管内に郵便物を配達しながら、それと一緒に適当に配ってくれたのだった。ただ広告郵便にも欠点があって、それは引札の配布先は配達夫の任意だったことと、広告郵便には一通二匁(七・五グラム)までという規定があって、それを超過することが許されなかったことである。郵便配達夫を活用しようとした逓信省の思いつきはよかったのだが、ナントいってもお役所仕事、民間の新聞「折込広告」が本格的に始まっていた大正十三年には、郵便局が繁忙になってきたことを理由に、その年の十二月限りで、この制度は廃止されてしまった。