創立50周年を迎え、過去の出来事とその時代背景について時を遡ります。
株式会社オリコミサービスの起源は、1922年(大正11年)、当時5大新聞取次業の一つであった「北隆館」内に斎藤岩次郎が「折込広告部」を作り、その翌年「折込広告社」を創業したことに求めることができる。
この頃の折込広告市場は東京都折込広告組合の1964年(昭和39年)の調査によると、折込広告総枚数に占める割合が、スーパー18.1%、一般小売店24.1%、不動産23.6%で、スーパーは3位にまで急成長を見せていた。
量販店の台頭とともに、1967年(昭和42年)には、日本チェーンストア協会も設立され、1970年(昭和45年)2月には「販促効果をあげた折込広告展」において、同協会が「当協会80社のうち、常に折込広告を利用しているのは60社1760店舗。年間広告費はおよそ150億円で、そのうち7~8割が折込広告に投入されている」と指摘していた。大手スーパーマーケットは、小売業界のシェアを大きく変え、1972年(昭和47年)にはダイエーが創業15年にして売上高で三越を抜いて小売業第1位になり、同年、小売業全体に占める百貨店とスーパーマーケットのシェアの逆転劇も起こった。
こうして折込広告を販促手段として売上を伸ばすスーパーマーケットが、折込広告に多くの販促費を投入するため、他の小売業も対抗して折込広告をさかんに出稿するようになった。
1973年(昭和48年)、さらなる飛躍、発展を遂げるために新聞折込広告、ダイレクトメール、配送業務などを専門的に取り扱う新会社を発足させることになった。これが「オリコミサービス」の誕生。
設立当時の資本金は1,000万円、社員数35人という陣容、トップは株式会社オリコミの社長、斎藤房次郎が兼務。株式会社オリコミ(現・株式会社オリコム)の原点でもある新聞折込広告のシェアを回復し、一日も早く専門会社としてナンバーワンの地位の確立を目指すというのが目標だった。
業界として初めてマーケティングを踏まえた量的調査を実施し、「首都圏新聞折込広告出稿統計」にまとめた。
これにより折込広告の媒体価値を高め、オリコミサービスの地歩を固める礎になった。
1974年(昭和49年)9月1日、オリコミサービスは「宣伝科学研究所(宣研)」の業務と社員を一本化することになる。
宣伝科学研究所は、1943年(昭和18年)5月、折込広告社の創設者・斎藤岩次郎の長男、斎藤金太郎を代表取締役として銀座6丁目3番地(現・中央区銀座6―110)に設立された。
宣伝科学研究所は、折込広告社に企画・デザインの機能を提供するとともに市電の広告媒体取り扱いを請け負っていた。また、折込広告社が大蔵省(現・財務省)から受注した国債売り出しのための宣伝企画やその移動展示の制作並びに紙芝居宣伝を委託されていた。オリコミサービスの営業部門は、補強・充実されることになった。
こうして軌道に乗り始めたオリコミサービスは、業界でもいち早く折込広告の科学化と最適配布への取り組みを模索するようになった。
科学的な手法での折込広告へのアプローチは、1976年(昭和51年)9月の「首都圏新聞折込広告効果測定資料」の発表へとつながっていく。
1. なんらかで折込広告を見ている人(接触率)が全体で80%、主婦層では90%の人が折込広告を見ている。
2.
折込広告を見て店に行く人(行動率)が62.4%
3. 興味・関心が高いのは、デパート、スーパー(53.3%)、バーゲンセール(43.9%)、食料品(48.4%)等の折込広告
4. 折込広告は商品の写真が載っている方がわかりやすい(71.2%)
5.
折込広告の1週間での認知率(折込広告を見た率)は75.9%で、女性の場合は80.7%に上る
6.
広告主の業種別構成では、スーパーマーケット(11.8%)、百貨店(4.8%)、不動産(4.7%)の広告が順に高い
7. 折込広告の再認率は平均47.0%
当時、折込広告が、朝刊とともに毎日のように各家庭に配られ、日常生活に入り込んでいる事実をこの結果から読み取ることができる。
1976年(昭和51年)11月24日から30日まで、東京・銀座の伊東屋において、「折込広告展(江戸のチラシから現代まで)」が、オリコミサービス主催で開催された。折込広告の展覧会は、日本では初めての試みであり、どれだけの入場者があるものか想像もつかなかったが、いざ始まってみると若者が次々と来場し、興味深そうに展示品を見て回っていたという。買い物情報源として折込広告が身近な存在だけに、生活感覚として折込広告を受け入れる若者の姿が目立ったのであろう。この様子はNHKでも取り上げられ、社会的にも関心の高いものとして捉えられたようだ。
貴重な引札などの資料はオリコミサービス顧問である増田太次郎氏のコレクションであり、歴史・文化の趣を伝えることにより折込広告展は実現したのである。
1979年(昭和54年)4月、当時社員50名、年商37億円というオリコミサービスの2代目社長に、東京都折込広告組合組合長を務めてきた鯉登寿雄が就任する。
1974年(昭和49年)4月には、1961年(昭和36年)の組合結成以来13年にわたりその職にあった東京都折込広告組合の組合長を勇退。それまでの折込広告業界に尽くした功績は計り知れず、折込広告と鯉登は切っても切れぬ間柄とまでいわしめたその業績は多大であった。
こうして鯉登が社長に就任した時期は、昭和30~40年代の高度経済成長期を通り過ぎ、安定成長期に入っていた。昭和40年代後期の第一次オイルショック以来、消費者に節約意識が根づき、それまでの大型景気期とは異なり、折込広告に掲載されたスーパーの目玉商品が売れ残るというような、オイルショック以前には考えられなかったことが起こり始めたのである。
広告主は今まで以上にマーケティングに力を入れ、多くのデータに基づくきめ細かな販促活動を打ち出し始めた。1975年(昭和50年)頃からは媒体間の競争も激化し、テレビ広告費が新聞広告費を初めて上回ったのもその年である。
それまで折込広告を主力媒体としてきた広告主も、テレビや新聞広告を併用するようになり、こうした変化に対し折込広告界にも危機感が募りつつあった。オリコミサービスとしても新たな局面を迎える時期でもあったのである。
開業当初は浜松町分室にあった配送部門は、事業の急速な拡大に伴い竹芝倉庫(竹芝桟橋)へと移ってはいたが、折込広告などの取り扱い量は増大する一方だった。既に竹芝倉庫も手狭となり、急遽、オリコミサービスとしての配送センターを探すことになったのである。
当時大手クライアントが埼玉県を地場としていたこと、さらには埼玉県庁広報課の広報があったため、候補として挙げられたのは埼玉県内という立地であった。また、埼玉県戸田市は関東のほぼ真ん中に位置し、そこにセンターを設ければ1カ所でカバーできるため経費削減にもなるということから、最有力候補として挙げられたのは戸田市である。
こうして1982年(昭和57年)、オリコミサービス初の配送拠点として戸田配送センターが開設された。配送拠点の確保は、オリコミサービスの発展に更なる弾みをつける一つの起点となっていくのである。
1983年(昭和58年)、オリコミサービスは業務の拡大に伴い、浜松町の社屋を後に江東区大島3-1-6のオリコミ城東ビルに移転し、3月28日よりスタートすることになった。
新社屋は新大橋通りと明治通りの交差点に近く、都営地下鉄新宿線の西大島駅からゼロ分という交通至便の立地であった。建物は地上3階、地下1階で延べ床面積は2753平方メートル。敷地、建物ともにこれまでの5~6倍の面積となった。
西大島時代は、またOA化に向けて積極的に企業努力がなされた時期でもある。業務拡大に伴い、受注量が大きく増大し、手書きの伝票ではあまりにも効率が悪くなったことが、OA化に向けて拍車をかけることになったのである。
なお、この移転に伴い、アドメール、サンライトのオリコミグループ2社も、同所へ移転。さらに1984年(昭和59年)、宣伝科学研究所が「株式会社宣研」と社名を改称し、城東ビルにて再発足することになった。
1985年(昭和60年)、広告業界は3兆円産業へと成長した。この年、当社においては神奈川方面の配送機能面でも更なる充実を図るために、大和市鶴間2767-3に横浜配送センターを完成。サンライト横浜営業所として開業した。
1994年(平成6年)、千代田区神田小川町2-4-5に移転が決定した。
この新社屋で、オリコミサービスの新たな一歩が踏み出され、環境改善の第一段階が達成されたのである。
新社屋への移転も果たした994年(平成6年)、コンピュータマップデータシステム「OSCAR(オリコミサービス・クリエイティブ・エリア・リサーチ)」を開発し、マップデータのシステム化を目指した。それまでパソコンで地図を管理する地図データベース作成は世間的にも需要があったが、エリアマーケティングを展開する当社においてこそ、その必要性があると考え、「OSCAR」の開発・導入に踏み切ったのである。
当時はまだ地図のデジタル化がまったく進んでおらず、データ作成には莫大な費用が掛かったが、コンピュータ環境の進歩により、何年かで地図のデジタル化も進んだため、夢ではなくなったのである。
戸田配送センターが開設されてから11年が経ち、営業スケールに合わせた収容力を確保するために、配送センターを移転。
1998年2月23日、当時、オリコム会長 兼 オリコミサービス代表取締役会長 斎藤房次郎氏、ご逝去
神田小川町の本社は、複数階に分かれており、業容の拡大に伴い社員数も増え手狭となったため、神田錦町に移転。
2005年(平成17年)7月、オフィスを「丸の内センタービル」に移転した。
日本を代表するビジネス街であり、社員のモチベーション向上にも寄与した。東京駅から徒歩圏にあるオフィスには、全国のお取引会社様などの来訪が増えた。
新聞折込広告の出稿が増えるとともに、配送の業務効率化が課題となっていた。この課題を解決するために、仕分けや梱包業務の自動化、GPSを使った着荷確認システムなどシステム化を行い新聞折込広告の媒体価値の向上に繋がる。
江戸時代から昭和までの貴重な広告資料である増田コレクションのデジタル・アーカイブCD集(3枚組)「廣告そのむかし~引札・絵びら・ちらし集~」を制作。
CD集(3枚組)は、「庶民の消費生活」、「時代と歴史」、「世相と風俗」の3つのテーマで編集、 8,000点以上におよぶ資料の中から、それぞれのテーマごとに約300点、計900点の資料を抽出し、ビジュアル映像としての面白さを軽便な形で閲覧していただくことを目的に制作した。
2008年(平成20年)9月、オリコムが所有していた銀座6丁目の「銀座オリコミビル」に移転。
米証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻したのはまさにこの9月。世界的に景況が悪化し、国内にも波及、当社の業績にも大きな影響を及ぼした。また、3年後の2011年3月11日、東日本大震災が発生、経営に外的要因が大きく影響する時代を刻むビルとなった。
銀座6丁目地域の再開発に伴い、ヒューリック銀座ウォールビルに移転
2013年(平成25年)、公文書や歴史資料などの保管や活用に取り組む国文学研究資料館(東京都立川市)に増田コレクションを寄託。国文学研究資料館のサイト内に「増田太次郎広告コレクションデータベース」が設けられ、誰もが当時の広告に触れられるようになった。現在は8,400点が公開され、検索して閲覧することができる。
媒体価値の変遷、生活者の生活スタイルの変化によりインターネット広告が成長するに伴い、得意先へインターネット広告の提案事例も多くなりつつあった。
インターネット広告の販売・運用のノウハウをGoogle社とのパートナー契約により習得することとなった。
全国に多くの店舗を持つ業態では、屋外看板(ロードサイン)の管理業務も煩雑な業務である。これらの一括管理を当社で請け負うケースが出始めた。
これらの案件を受け、全国の屋外広告の事業者とのネットワークをもとに2016年(平成28年)7月に、媒体費用、製作作業費用、屋外広告物申請費用など諸費用を確認することができる「屋外看板サーチ」というウェブサイトを立ち上げた。
2019年(平成31年)4月にドローン操縦士の育成を目的に「ドローンスクールジャパン埼玉三郷校」を開校。開校後は、三郷市の花火大会でドローン撮影を実施したほか、地域のお祭りや商工会イベントの空撮も請け負った。
2022年(令和4年)にはドローン操縦のための国家資格も新たに誕生し、今後も資格取得希望者は増えていくことが見込まれている。撮影、点検、防災、農薬散布など、ドローンによってできる業務はこれからも拡大が期待できる。
2020年6月、三郷市と「緊急時における無人航空機による協力に関する協定」を締結。この協定は、三郷市で災害等が発生した際に、株式会社オリコミサービスに対して、ドローンによる市内の被災状況等の情報収集や調査を要請できるようにするための協定。
2021年(令和3年)7月、本社を銀座6丁目のヒューリック銀座ウォールビルから、銀座3丁目の「紙パルプ会館」に移転し、「銀座インタラクションセンター」と名付けて再スタートを切った。
「創立50周年祝賀の会」を銀座「紙パルプ会館2階フェニックスホール」にて開催。
3Dバーチャルギャラリーでの「令和の折込広告展」開催を発表。